羽根ものの次に打ったのは。。。

前回の続きです。
当時は羽根ものの他にも、いわゆるフィーバー機と言うものもありましたが、出玉も多い代わりに初期投資も多いという印象が合ったため、暫くは羽根もの(主にゼロタイガー)を打っていました。


そのうち、社会人になり羽根ものには物足りなくなったワタシが次に打ったのが「スーパープラネット」です。そう、パチスロにハマってしまいました。
スーパープラネットをご存知の方は、ワタシの大体の年齢が分かると思いますが、リーチ目の数の多さが人気で、以外なリーチ目で捨ててある台をひろっていました。


当時は、兄以外にも一緒にパチンコ屋に行く仲間を増え、仕事帰りや休日はほとんど行っていたように思います。

最初のギャンブル

極貧とまではいかないまでも、貧乏なのはギャンブル好きだったからだと思います。


最初はパチンコ、兄が従兄に誘われ、兄がワタシを誘うという流れでした。
一番初めて打ったのはゼロタイガーという機種、いわゆる羽根ものと分類される物です。
記憶では8千円ぐらい勝ったのかな?高校生のワタシ(違法ですが)には、遊んでお金が増えることに興奮しました。


でも、小遣いの少ないので兄に誘われない限り行くことはなかったのですが、当時は他のギャンブルをやってました。
麻雀です。部活に入ってない連中と土曜日の午後(当時は土曜日までの授業、半ドンってやつです。)に、賭け麻雀をやってました。
中学生の頃に祖父に教えられ経験が長いせいもあり、そこそこ勝っていました。
でも、高校生の賭け麻雀、勝ってもたかが知れているので、それをパチンコで増やそうとしたのです。


気づいたら、一人でも躊躇なくホールに行くようになっていました。

精神科病院協会・山崎学会長に直撃したら…

ネット記事を巡ってていたらタイトルにある記事が出てきました。


障害福祉に関わる仕事をしている者として、今回の精神科病院協会会長の意見は概ね賛成です。
概ねと言ったのは、文面からは会長の発言が感情的になっているように感じたからです(記者がそういう風に誘導しているようにも思いましたが。)


理想を言えば、身体拘束もなく、サポートしてもらいながら自立(決して全て一人でできることではない。)していくことでしょうが、会長の言うように身体拘束せずに自殺されたり、最悪なことは他者に危害を与えることなのでは無いでしょうか?
そうなれば、担当医も批判を受ける事は避けられないと思います。ひょっとしたその担当医のキャリアだけでなく、社会的にも抹殺される可能性もあるのでは無いでしょうか。


文中の最後に、「地域の人に支えられ今は幸せ」とか、支援者側の心地よい言葉も理ますが匿名では無いので本音かどうか疑問もあります。


なぜなら、日常的に家族に暴力を振るい、結果入院した障害者を持つ家族にこう言われたことがあるからです。
「あ〜やっと、安心して眠れる。できればずっと入院してくれれば良いのに」と。